紋匠師の仕事は、織物の中に絵柄を忠実に再現することです。
英語で言えば紋匠師はテキスタイルデザイナーということになりますが、欧米でテキスタイルデザイナーと呼ばれている職業とは異なり、ただテキスタイルになるための原画を描くだけでなく、織機を熟知し、また織物を織り構造から理解し、実際にジャガード織機をコントロールするために必要な紋紙(パンチカードあるいはデータ)を作成するまでを職域としています。
ジャガード織りとともにジョセフ・マリア・ジャカール(フランス)が、後に「ジャガード織機」と呼ばれる
織機を考案したのが1806年のことです。
複雑な文様の織物(紋織物)を織る場合、それまではタテ糸を持った者が櫓(やぐら)の上に乗って、
縦糸を上下させ、その開口部に櫓下にいる者が文様の状態を確認しながら、横糸を通していく作業を
織返すという形で織物が織られていました。もちろん相応の時間もかかりましたし、量産も難しい状況に
ありました。
ジャカールが考案した織機が革命的だったのは、この複雑な作業を全て機械化したことに拠ります。
「穴があいているところ」と「穴があいていないところ」に分かれた紋紙がこの複雑な動きを可能にしたのです。この発明で織物は初めて量産の道を歩み始めました。
明治5年、伊達弥助たちが万国博覧会の行われていたウィーンに渡航します。
当時は欧州への旅は命の危険を伴うものでしたが、困難の中このジャガード織の技術を日本に持ち帰りました。
そしてこの伊達弥助の娘婿である諏訪萬助から始まる諏訪家は、5代に渡って「織」に関わってきました。
すべてのものが新しくなっていく中で、ジャガード織りの原理は、発明から200年以上たった今も変わりません。
そして今も、ジャガード織機以上に緻密な織物を作り出せる機械はありません。
さらに詳しい今治地域の紋紙製造工程の変遷についての資料
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西陣の優秀な織元だった諏訪家(何代にも渡り帯の織元だった)が、当時の紋工業の近代化と技術向上のための指導者として愛媛県に招聘されたのは、現在のスワモンショウ代表・諏訪文久の祖父の代のことでした。
現在のスワモンショウの代表である諏訪文久の祖父は、国立京都高等工芸学校(現:京都工芸繊維大学)を卒業しています。技術の指導者として愛媛県にやってきたのも、高等工芸の教授の推薦によるものでした。
今治の地で、公的な業務を通じて技能職の方々と交流しながら技術の向上に尽力していました。
そうした環境で育った文久の父も、京都高等工芸学校に進み、卒業後、繊維関係の企業で修行を積んだ後、
父と共に紋匠師の工房(諏訪意匠紋工所)を立ち上げました。それが現在のスワモンショウ(旧:諏訪紋匠)です。
文久自身も京都に学び、父の元で20年以上修行を積み、現在に至っています。
テキスタイルデザイナーが機械の制御に深く関わること。これは欧米型の近代的な分業制を正解とするなら、一見、集約的ではない方法だということができます。
しかし、出来上がる織物の緻密さを追求するためには、文様を描いた人が織機を制御した方が、
その文様の再現性は高くなるはずです。
少なくとも中世以降、わが国の繊維技術をリードしてきた西陣。繊維産業の近代化においても先頭に立って、それを成し遂げ、今やその緻密さ故に世界的に評価されている西陣が、あえて未分化のままに残してきたこと。そうしたことを私たちは大切にしていきたいと考えています。